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2015年12月 |
母のこと |
これは、2015年12月に岩田こどもクリニックの待合室内に掲示されたエッセイです。 今年の5月に、満91歳で母は旅立ちました。すべてのぜい肉はそげ落ち、骨と皮ばかりの肉体になってしまいましたが、気高く美しい顔立ちの最期でした。 元来、持病というものがなく、身体は健康でしたが、すでに60代半ばからアルツハイマー病を患い、施設療養生活は20年近くになっていました。その長い年月の間に会話はまったく成立しなくなっていきましたが、穏やかな性格の母は、いつもやわらかな微笑みを浮かべ、食事は毎回必ず完食。音楽が流れれば手や足でリズムをとって楽しみ、場になじんでいました。 そこは自分の家ではなかったけれど、スタッフの皆さんから慕われ、いつも親身になって世話をしてもらって、母は母なりに、置かれた環境の中で充分に生を全うしたと思います。そんな母の様子を見ていて、多くのことを教えられました。 健康のため、そして作ってくれた人への感謝もこめて、食事は残さずになんでもよく食べること。 まわりの人たちとはできる限り、仲良くなごやかに過ごすこと。 アルツハイマー病になってもなお、失われることのない、その人らしさ、というものがあること。 親は、記憶を失い、言葉を失ったあとも、その存在自体が子を教育し続けるのだということ。 母がそのような晩年を施設で過ごしてきたことが、二人の娘たちの生き方に確実に影響したのではないかと思います。それぞれに専門職を持つ人生を歩んできた姉妹です。母がひと様にお世話になっている以上、自分たちも目の前の人たちに対して、つねに誠実に、懸命に向き合わなければいけないのではないか、とつくづく感じていました。それが娘として、母本人やお世話になった人への恩に報いるありかたではないか、と。 第2次世界大戦後、まだ日本中が貧乏だった時代。 わが家も例にもれず、お金もモノもあまり豊かな状態ではありませんでした。そんな中、母は二人の娘の教育を一番に考えて、これからの新しい時代を自立して生きていける女性に育てようとしていました。経済的に貧しい状況にありながらも、学習塾に通わせたり、教養を身につけるために習い事をさせたりしました。母自身はまだ若かったにもかかわらず、あまりおしゃれもせず、贅沢もせず、ただひたすら、娘たちの養育に心血を注いでくれました。 そうして若い時に苦労をたくさんした分、余生はひと様から身の回りのすべての世話を受けながら何も心配せずに過ごせる、もしかするとそういう筋書きの人生だったのかもしれません。娘からすれば、次第に記憶も身体機能も失っていく母を長い年月、なすすべもなく、ただ見守るしかないのはとてもつらいことでした。 最期に立ち会えたのは運が良かったと思います。そばに行くまで母が待っていてくれたのかもしれません。お別れに来てくださったスタッフの方が、こんなかわいいおばあちゃんになるのが夢でした、とおっしゃってくださったのがとても心に響きました。母への何よりのごほうびとなる言葉でした。 大正、昭和、平成と激動の時代を生き切った母は、大きくてゆたかな心の財産を残して逝きました。 寒くなってきました。身体を冷やして風邪をひかないように、温かくしてお過ごしください。 来年もどうぞよろしくお願いいたします。 |